黒崎 溪水
暗号をキャッチしに行く蛍の明滅 ゆきいちご
蛍はタダモノではない存在で、単なる昆虫ではない。例えば歌題にされたり黄泉と現世との使いに仮託されるなど、古来よりひと際格式高い存在として日本の文化に組み込まれている。この句では完全にスパイとしての存在。人には理解できない点滅で、これまたスパイであるこの句の作者に現世の状況を発信しているのだ。
テレビ消して一人ポツンと夜を聴いている 久光 良一
「聴いている」という表現に参ってしまった。テレビは消したので何も聞こえないはずだが、それでも作者は確かに「聴いている」のだ。孤独、寂寥、時間の経過、想い出。音ではない何かとの対話。背景にはその直前まで流れていたテレビの笑い声と対照的な果てしない静けさ。余韻。詩が広がっていると思う。
誰に責められる激しく荒れて海 三好 利幸
私は日本海側の海沿いの都市に住んだことがあるが、寒い時期のどんより曇った空の下の荒れた海ほど悲しいものはない。海には海の事情があり、凪ぐときもあれば荒れるときもある。責められて荒れたいときもあるのだろう。こちらとすればそんなに荒れないで欲しいと思うときもある。しかしその裏腹で一瞬、美しく微笑んでくれる瞬間もあるから仕方ないとも思え、均衡が成り立つのである。
さみしさとさみしさが電灯をつけている 早舩 煙雨
ともる電灯の数が多いからといってさみしくないというわけではない。逆に点としての孤独感は強調され、他者との距離感や生活の時間差、すれ違いなどがさみしさを増幅する。このような逆説的な奥深い事象をシンプルな言葉で紡ぎ出したところが秀逸。都市生活者ならではのさみしさだ。
古い日記には嘘が書いてある 青井こおり
思い当たるフシはある。若い頃はとかく自分を大きく見せようとしたり、人の言葉を曲解して勝手に悲しんだり。後年、俯瞰してそれを見破れるようになったということはいいことなのか悪いことなのかわからないが、とにかく「大人」になったということなのだろう。早速昔の日記を取り出して、チェックしてみよう。一般的に若い頃の日記を読むことほど恥ずかしいことはない。
私は人々にかういふ。
君等が心の土に真実の種をおろせ。
君等が生活の上に生命の木を生ひ立たせよ。
大地の力を生きることの力とせよ。
太陽の光を生きることの光とせよ。
然らば、君等が生命の木はやがて多くの花をつけ多くの実を結ぶであらう。
(井泉水著『生命の木』「芸術より芸術以上へ」)